東大観世の日々

能楽サークルって何をやっているのでしょう

風姿花伝

連続にて、いや、長々と失礼。初の合宿(夏合宿は参加したのかしてないのかよくわからぬ)の感想と思わせ、風姿花伝読了したのでそっちの感想。所々に「こころざしの芸人よりほかは一見をも許すべからず」などと書かれていると読むのが躊躇われる。秘伝の書たるこの優れた芸術論が一介の大学生が自由に読めるという事実に喜びと寂しさを感じながら……秘すれば花、であるのに。第一から第六までも大変面白いのだが、これはプロフェッショナル向けであるため小生には評価するだけの知識も経験も能力もない。第七、別紙口伝には「花」とは何かということが語られているが、これは小生が普段から漠然と考えていたことを的確な言葉にされたようで、たじたじであった。別紙口伝の冒頭に「花と、おもしろきと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり」と書かれているが、これに尽きる。どんなに素晴らしい能でも二回続けて見れば、二回目の面白さは減ずるが、これは珍しさが無くなったからであるというのだ。だが、珍妙な能をやればいいというわけではない。それは花以前の段階で躓いている。四季の花々は限られているが、咲きほこりまた散るという移り変わりを見せるため、常に珍しい。別紙口伝では如何にしてその珍しさが得られるかということについて戦術まで持ちだして述べている。一例を挙げれば、激しい能を演ずる時に柔らかな心を忘れてはならない、といったことである。秘すれば花という言葉もここにある。見る側が、おっ花があるらしいぞ、と思って見ていたのでは珍しさも何もあったものではない。ちなみに、これら全てを満たしたミステリ作家は小生は麻耶雄嵩しか知らない。ミステリ界の神と云われる所以である。しかし新しい本を書かないので四季が移り変わるように彼の本を順番に何度も読んでいる哀れな小生のために早く次回作を書いて~。
また第五「奥義に云ふ」では、上下に感動を与えることが肝要だと書かれている。つまり能で云えば、能をよく知る者もはじめて見る者にも感動を与えなければいけない、ということだ。この域に達している芸術は本当に少ない。世間一般でおもしろいと云われている映画やテレヴィなどを見て、小生が感動することは殆ど無いため、感動を一般人と共有できた経験はあまりない。唯一味覚だけ──食も芸術であろう──は一般に近いのだが。兎に角、見る側の変化によって珍しさが何かということも変わる。人というのは常に一瞬前の自分とは似て非なる別人になっているため、二度目に読む小説が数倍おもしろくなっていることも往々としてある。だが、それは異なる花だというだけで優劣などないのだということを、我々はつい忘れがちになってしまう。
小生は感動を喰って生きていると前々から思っていた。感動なしには生きられないのだ。相当頑丈(むしろ暖簾に腕押し)な精神を持っているつもりだが、花という食物なしには死んでしまう。小説を読むのも勉学に励むのも演劇を見るのも食事をするのも美術館に行くのも音楽を聴くのも自然の中に出かけて行くのも他人と交流し様々な考え方を知ろうというのも、全て花を喰うためだ。首がへし折れるほどの感動という物を常に求めている。だが、数年前から徐々に生まれてきて、燻り続けている思いがある。それは自分で花を咲かせたいという思い。東大観世会に入り、見るのではなくやるという形で能というものに関わったのもそれが理由の一つかもしれない。勿論過去に多くの創造的活動に携わり、それなりの達成感も得た。一年をかけ準備し六年で培った経験を全て投入した高三の文化祭なども一例だが、所詮は小さい花。何か一つのことに邁進するのは楽しく達成感もあるが、それは普段目にしている物とは異なって自分が直接関わったから珍しいだけであり、それは他人にとっては雑草に過ぎない。将来、研究者になるにしろ小説家になるにしろ、そこで花を咲かせることこそが自分にとっての生涯の花となろう。研究者は、もちろん研究対象によるのだが、最も普遍的な花を咲かせる職業の一つに入ると思う。勿論普遍性などに意味はなく、自分独りが愛でる花であってもよいのだろうが、普遍性とは決して存在し得ないが故に、常に珍しく在り続ける高嶺の花なのかもしれない。
勿論小生は花など万分の一も理解していない。東大観世会での生活の中で、少しでも花というものを知れれば幸いである。

ほんっっとに長くてつまらなくてみんなのブログを私物化してごめんなさい。ぺこり。 いきょうち

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はじめてのおはやし(第一話)

ぺっ、誰もこんな文章読んでねーよ、と巫山戯て書いていたら、意外とOBが読んでいることが発覚。しかも面が割れてしまった。きゃー。ということで今日は真面目にOBの人へのお知らせも兼ねて……なんと、一年生は全員お囃子を始めるようで。四人なので全種類!あべさんが太鼓、いけうち君は小鼓、坂本龍一はバンドではなく笛、たんげ君は大鼓だそうで(五十音順です、私の中でのランク付けではないので誤解のないよう)。というわけでわたくし、木曜日に小鼓の稽古に行って参りました。
小鼓の古賀先生は、高校の化学の先生がカツラを被ったら同じ顔。いつも巫山戯たウケ狙いの化学のレポート出してたのに、何故か得点が高かった。この甘さや、髪の無さによる威厳の無さが、生徒の反逆を招くのだ。稽古場で名乗ると、いきなり姓名判断された。曰く、「まじめだが、ねちねちしたところがある。潔癖性。他人に興味が無く、他人の不幸を何とも思わないところがある」。……。また、池内和彦の、内と和の画数を足すと12になる。曰く、「惜しかったね、13ならイイ男なんだけど、12だから心労が多いね」。池田和彦だったら今頃はジャニーズに入っていたとでも云いたいのだろうか?周りにいたお爺さん、お婆さんの名前は一人も覚えない癖に、姓名判断の結果だけ覚えているので、「ねちねち」や「他人に興味がない」は否定しにくいが……。お爺さん、お婆さんで思い出したが、小鼓の稽古は年齢層が相当高い。私の普段のパターンは、仮面ライダーやゴジラの映画(ハム太郎と同時上映)に行って平均年齢をしっかり上げるのだが、今回はっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっt、すみません、「t」のキーに汚れがこびりついていたのをはがしただけです。あー、別に潔癖性ってわけじゃないですよ。
というわけで、二文字目と三文字目を足して13画になる綽名を募集します。

次回予告
気付いた方もいらっしゃると思いますが、これは「はじめてのおはやし(第一話)」なので、続編(全四話)も他の一年生によって書かれることになるでしょう。たぶん。では来週をおたのしみに。ごきげんよう!

いきょうち(折角同一人物だとばれないように毎回苦労して一人称と文体を変えているのに、これでは意味がない……)

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9月のOB会

 先週の土曜日9月のOB会がおこなわれました。僕にとっては、初めてのOB会だったのですが、いつもより和んだ雰囲気で、リラックスして舞うことができましたね。河田先輩が、「ビデオで見たけど旨く舞えていたよ」と褒めてくだっさったので、きっとヨロヨロは旨くいったのでしょう。
 しかし何よりも楽しかったのは、その後開かれた懇親会ですね。高浜大先輩を中心に小長井さんや、及川さん、別所さん他多数の先輩方と触れ合うことができ、とても楽しいひと時を過ごすことができました。それとともに観世会の歴史を肌で感じることができましたね。
 OB会が終わると次はいよいよ自宴会ですが、これからもますます能のお稽古に精進したいものです。
            坂本 龍一
 

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おいなりさん

「能楽堂にお稲荷さんができたんだよ。」
「いや前からあったんだけど、分かるところに出てきたんだ」
先日の師匠稽古が終わったあと、先生がおもむろにそう仰った。
お話によると、もともと観世能楽堂の中庭(楽屋側)にお稲荷さまがあったのだが、場所が悪いと言うことで、正面玄関横に新しい社を建ててそちらに遷したのだとか。真っ赤な鳥居が玄関のすぐ横にあるので、今度行ったときにはちゃんと挨拶するようにと教えてくださった。

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